カードキャプチャーさくら〜黒衣の花嫁〜
第8話     【さくら散る】



【さくら散る】

 ピチャン・・・ピチャン・・・。

「うん・・・」

 どこからともなく聞こえる滴の音に、小狼はようやく眼を覚ました。
 薄ぼんやりと見えたものが、はっきりと見え出す。

「ここは・・・?」

 身体を動かそうとしたら、ジャリっという音がした。
 見ると両手両足が石壁に釣られた鎖で縛られていた。

「そうか、捕まったのか」

 両手を上に挙げ鎖で吊り下げられた恰好をしていた。
 己が姿を見ると包帯が巻いてあった。
 そのことを訝しく思った。
 首を横にすると、窓から月が見える。
 どうやらここは、最上階らしい。

「とすると、ここは儀式の間か何かなのか?」

 薄暗く石造りの部屋。
 床には見たこともない魔方陣が描かれていた。

<どことなく黒魔術のにおいがする>

 己の考えをまとめようと、小狼は魔方陣を見つめていた。

「眼が覚めましたか?」

 声のした方を見ると、ミユウが立っていた。

「音無か」

 が、ミユウはその問いに答えず、小狼の前に立ち、上半身の包帯を取り替え始めた。

「なぜ、こんなことをする」

「さくらさんとの約束ですから」

「さくらの?」

「ええ。さくらさんは、あなたの命乞いをして、今はご主人様の許にいます」

 助かった理由を聞いて、小狼の顔色が変わった。

「さくらに何かしてみろ。絶対に許さないからな!」

 ミユウが哀れむ顔で小狼を見る。

「許すも許さないもないでしょう。今のあなたに何が出来るというのでしょうか」

 確かに今の状況は、そんな事を云える様な状況ではない。
 しかし、云わずにおれようか。

「それに・・・」

 ミユウが嘲るように嗤った。

「それに、なんだ?」

「今宵はワルプルギスの夜(Walpurgis night)なんですよ」

「それが、どうしたんだ」

 が、ミユウは答えず、足音を残して去っていった。

<ワルプルギスの夜か。確かゲーテの『ファウスト』にあったな>

 ブロッケン山で魔女や精霊たちが淫靡な宴を行う夜を、ワルプルギスの夜という。

<ますます、黒魔術のにおいがしてきたな>

 小狼は首を回して、改めて月を見た。

「今夜は満月か・・・」

 ユエとケルベロスは無事だったのだろうか。
 そして、助けがないところを見ると、自分たちの居場所は、未だにわからないのだろう。

「なんとか自力で逃げ出さないと」

 しかし、今は黙っている時である。
 小狼は眼を瞑って体力の温存を図った。
 いずれ、リチャード・王が接触して来るはずだ。
 勝者の常として、敗者を嗤いにくるのは勝者の愉悦だからだ。

「策を弄してまで、おれに勝ちたかったんだからな」

 状況を冷静に把握する。
 独り言をしゃべることで、小狼は第三者の眼で物事を見ようと努める。
 月の波動が僅かに弱まった。

「そうか。きょうは月食の日だったのか」

 月食が始まれば、僅かに残った月の魔力もなくなる。
 リチャード・王は慎重な男だ。
 おそらくその時に来るであろう。
 だがそれは、小狼のチャンスでもある。
 小狼は、その時を待った。


 眼を瞑っていた小狼の耳に、カーン、カーンという足音が聞こえた。
 その足音が止まり、部屋の戸が開く軋む音がした。

「ご主人様が見えられます。さくらさんも一緒ですよ」

「何?」
 小狼が眼を開けると、そこにはミユウとグリフォンがいた。

「お目覚めですね、小狼君」

 リチャード・王は黒一色のタキシードを着ていた。

「さくらは?」

「心配しなくても、来ていますよ」

 扉の向こうから現れたさくらの恰好に、小狼は眼を見張った。

「そ、その衣装は・・・」

「そうです。ウエディング・ドレスです」

 ミユウが答えるものの、そんなことは云われなくても小狼にもわかった。
 そこには、黒い花嫁衣裳に身を包んださくらがいた。

「そうか。そういうことだったのか」

 小狼が呻くように声を絞り出した。

「リチャード・王。おまえの狙いは、さくらだったんだな。さくらを花嫁にして、10年後に備えるつもりだな」

「その通りです。さくらさんを我が妻にして黒龍の祝福を受けます」

 黒龍の力とさくらの力が合わさるとどんなことになるのか、想像もつかない。
 10年後、小龍は勝てないかもしれない。

<いや、まず勝てないだろう>

 李家は一族の全てをもって小龍を護るだろう。
 しかし、その間はリチャード・王の好き勝手であろう。
 一瞬の内に小狼は読んだ。

「さくら、眼を覚ませ!!」

 小狼が叫ぶも、さくらは無表情だった。

「さくらに一服盛ったな」

 さくらの瞳は、ぼんやりと焦点が合っていない。

「同意も得ていないんじゃ、無効だぞ」

 小狼はリチャード・王を睨みつけた。

「ふふふ。初夜の儀さえ済ませてしまえば・・・」

「な、なんだと?」

 乱暴な話だと思った。
 少なくても、さくらの同意を得るべく努めるのが、筋というものだろう。

「音無。おまえ、それでも良いのか?」

「李君は、なにか勘違いをなさっていますね」

 小狼の問いに、ミユウは冷ややかに答えた。

「人は神の愛を得たいとは思っても、神と結ばれたいとは思わないでしょう。思えば、それは不遜の極みというものです」

「リチャード・王とおまえの関係は、神と人の関係だと云いたいのか?」

「そうです」

 きっぱりと云ってのけるミユウ。
 動揺の色は微塵もなかった。
 ミユウと云い合っているうちにも、リチャード・王はさくらの手を携えて魔方陣の中へと歩む。
 リチャード・王がさくらの後ろに回ると、黒い衣装は衣擦れとともに落ちた。

「さくら! さくら!」

 悪魔に捧げられる生贄のように、裸のさくらは蝋燭に照らされた魔方陣に寝かされた。

「悔しいでしょうね、李小狼君。だがしかし、そんなものは黒龍の恨みには、遠く及ばない!!」

 小狼は、さくらの許に寄ろうとしても、鎖が延びて張るだけだった。

「愛する者を奪われる様を、そこで見届けるがよい」

 勝ち誇るリチャード・王が笑う。

「偉大なる黒き龍よ、慶びたまえ。あなたの末裔たる我、リチャード・王が妻を娶るものなり。
 我妻の純潔の血をあなたに捧げよう。
 その血をもって我が願いを叶えたまえ。我が願い、それは我の器にあなたの力が注がれる事なり」

「こ、これは、悪魔召喚の儀に似ている・・・」

「失われた秘法、龍の門(ドラゴン・ゲート)といいます」

「龍門の秘法・・・。聞いたことがある」

「一部、悪魔召喚の術が入っていますが、ご主人様の父君が研究改良し復活させました。
 龍の門の鍵は、さくらさんの純潔の血です」

「器とはリチャード・王自身だな。そうか、黒龍の化身となるんだな?」

「それだけではありません。
 黒龍の化身となったご主人様とさくらさんの間に生まれる子は、李小龍君よりも強くなるでしょう」

「さくらぁ眼を覚ませ! 眼を覚ましてくれぇぇ!!」

 パーンという音とともに、小狼は自分の頬が熱くなったのを感じた。

「お静かに。ご主人様の気が散ります」

 ミユウが小狼の頬を打ったのだ。
 リチャード・王がさくらに覆い被さった。

「痛い!」

 人形のように黙っていたさくらだったが、その時には我に返った。

「いや―――――っ!!」

 自分が何をされようとしているのか一瞬にしてわかった。
 さくらは駄々っ子のように首を振る。

「助けて! 助けて、小狼君!!」

 助けを求めて小狼の名を叫ぶ。

「さくら、眼が覚めたのか?」

 さくらは、えっ?となった。
 まさか、ここに小狼がいるとは思わなかったからだ。

「いや! 小狼君、見ないで。お願いだから見ないで!」

 おぞましい事が我が身に起こっているところを、小狼だけには見られたくなかった。

「リチャード・王、殺してやる! 殺してやるぞ!!」

 さくらを助けることができない不甲斐なさを、恨みに変えて小狼は喚いた。

「痛いっ!!」

 最後は、あっけなく来た。
 一層の痛みが身体に走ったその時、自分が何を失ったのか、さくらは知った。

「・・・・・」

 止め処もなく涙が流れるだけで、さくらはまた人形のように押し黙った。
 純潔の血が床に流れて、龍門の魔法陣が鈍く光った。

「おおお・・・門が開き、力が満ち溢れてくる。黒龍が来たぞ。ふふふ、はははは、我、ついに黒龍と一体になれり!」

「ご主人様、おめでとうございます」

「うむ。ミユウも喜んでくれるか」

「はい。この命、改めてご主人様と奥様に捧げることを誓います」

「そうか。我妻にもおまえの命をな」

「ご主人様が愛するお方ですから」

 ミユウの答えに、リチャード・王は満足な表情をする。
 小狼は、ただ沈黙しているだけだった。

「月が完全に隠れましたね」

 月食で月が地球の影に、すっぽりと入ったのだ。
 リチャード・王の願いは成就したことで、ミユウの言葉には余裕が感じられた。

「遅かった・・・もう少しだったのに・・・」

 うな垂れた小狼が呟くように云った。

「何をバカな事を」

 この期に及んで何を云うのか。
 小狼に月の魔力は、ほとんど残っていない。
 その大したことのない魔力も、月食で完全に月が隠れて、今は気にかける必要もない。

「このおれも、月が完全に隠れるのを待っていたとしたら、どうする?」

「何?」

 きっと顔を上げる小狼。
 眼の前に小さな鍵が浮かんでいた。

「闇の力を秘めし鍵よ、真の姿を我の前に示せ。契約の元、小狼が命じる。封印解除[レリーズ]」

 鍵が杖に変わる。
 その杖を手にした瞬間、ピシ、ピシっと音が鳴り、鎖は切断された。
 小狼が手にした杖は長さこそ短いが、クロウ・リードと同じ杖だった。

「バカな。なぜ魔法が使える?」

 思いもよらぬ事態に、リチャード・王は驚いた。

「さっさとさくらから離れろぉぉぉ」

 投げつけるように杖の先をリチャード・王に向かって振り下ろす。
 十数発の小さな魔弾が乱れ飛んだ。
 魔弾をかわすためにリチャード・王はさくらから離れた。
 後ろの石壁が弾けた。
 小狼はその瞬間、さくらに駆け寄った。

「男の嫉妬は実に醜い。さくらさんがいるのに魔弾の乱れ打ちとは。さくらさんに当たったらどうするのですか」

「やかましい! おれは自分にも腹が立っているが、おまえにはもっと腹が立っているんだ」

 己の嫉妬を隠そうともせず、小狼は喚く。

「グリフォン!」

 主の危機に、ミユウが叫んだ。
 グリフォンが小狼に正面から襲いかかった。
 ズドンと小狼が踏み込んだ床が鳴った。
 グリフォンは床に這っていた。
 アッパーカットを打ち込んだみたいに、小狼の左拳は頭上に高く上がっていた。
 足元の石床がひび割れていた。

「通天砲・・・」

 グリフォンは悶え苦しんでいた。
 グリフォンを倒した技を見たミユウが、呟いた。

「なんてムチャクチャな男なの」

「ちっ、踏み込みが甘かったか。ぶっ殺すつもりだったんだが」

<グリフォンを素手で殺す?>

 ミユウは聞き違いかと感じた。
 小狼は、よほど頭に血が上っているに違いない。
 普通はグリフォンの爪に恐れを抱くものだが、頭に血が上っていた小狼は気にも留めず攻撃を仕掛けた。

「さくらさんは、もうわたしの物です。今さらどうしようというのですか」

 リチャード・王は勝ち誇ったが、

「おまえ、頭おかしくないか? なんで、さくらが1発やられたくらいでおまえの物にならなきゃならないんだ?」

「虚勢を張って・・・」

「おまえのはガキの屁理屈と一緒だ。他人に盗られたくないから、玩具に瑕をつければ誰も見向きもしない。
 それと同じだ。だがな、それでもさくらはさくらだ」

 そんな程度でしかさくらを見ていなかったのかと思うと、ますます小狼は腹が立ってきた。

「それにしても、どうしてあなたに闇の力が使えるのでしょうか」

 クロウ・リードの魔法が使えることはわかる。
 小狼はクロウ・リードの血を引く者だし、鍵は、エリオルが事前に渡してあったものに違いない。
 だがしかし、あれは闇の力だった。

「元々おれの魔力は、97が月の力であって闇の力は3くらいだった。そして、小龍に90を渡した。
 7の月の力は3の闇の力を凌駕する。これでは闇の力を使うことはできなかった」

 全ての月の力を渡した訳ではなかった。
 いや、渡せなかった。
 もしも渡せることができたなら、もっと早くに魔法を使うことができたはずなのに。

「なるほど、それで月食が必要だった訳ですね。月の力をゼロにするために」

 反撃の芽を摘むためにリチャード・王は月食の日まで待った。
 それがかえって小狼に機会を与えてしまったということになる。

「ですが、ここから逃げられるとでも?」

 所詮は最後の悪あがきに過ぎない。
 リチャード・王には、まだまだ余裕があった。

「おまえ、読み筋を外されて気が回らないな。おれが持っているのは、なぜ鍵だけだと思うんだ?」

 云いながら小狼は、さくらの身体をシーツで隠した。

「ま、まさか・・・」

「そう。その、まさかだ」

 クロウ・リードの魔法陣が描かれたカードを差し出す。

「クロウの創りしカードよ、その力を我が鍵に貸せ。空[スペイシー]」

 小龍の叫びに応えるように、真っ白だった裏面に、両手を前に出した女性の絵が浮かび上がる。
 そして小狼が杖を後に振ると、空の魔法が発動した。

「空間が裂けた?」

 リチャード・王の云う通り、小狼の後の空間が裂けていた。

「空間の亀裂に逃げ込む気か!」

 さすがはクロウ・リードというべきか。
 空間を斬る魔法があれば、何時何処でも逃げることが可能であろう。
 また、現れることもできる。

「逃げる気ですか、李小狼君」

 今ここで逃げられるのは敵わない。
 リチャード・王は小狼を挑発した。

「ああ、その通り」

 小狼は冷静だった。

「誘いには乗らないよ、リチャード・王。さくらのためなら、おれの面子なんて何ほどのものかよ」

 さくらが負った心の傷を思うと、ここは一刻も早く帰る必要があった。
 ましてや、ここは敵地なのだから。

「ひとつ教えといてやる。この世には龍の力よりも強いものがあるってことをな」

 小狼はさくらを抱いて後に跳んだ。
 亀裂の中に飛び込むと、亀裂は閉じた。
 さくらと小狼は虎口を脱した。





「さくらたち、いったい何処にいるんや?」

 ケルベロスはため息をついた。
 ここはクロウの屋敷。
 リビングにはケルベロス、雪兎、芙蓉、小龍、そしてさくらの兄である桃矢がいた。
 さくらたちがさらわれて以来、小狼のマンションは危険だと思われた。
 マンションには不特定多数の人間が出入りする。
 よって、クロウの屋敷に芙蓉と小龍は難を避けた。
 もちろんケルベロスたちは、あらん限りの手立てでさくらたちを探した。
 が、如何せん手がかりがなかった。

「こ、これは・・・」

 不意に芙蓉が声をあげ、皆が芙蓉に向いた。
 テーブルに置いてあった羅針盤が光の線を放っていた。

「これって、クロウカードを探すための物やったな」

「ええ。羅針盤が働いているということは、この先にクロウカードがある?」

「クロウカードはすべて集めた。なのになぜや?」

 ケルベロスと芙蓉が話しているうちに、羅針盤が射していた空間に亀裂が入った。

「何や?!」

 空間の亀裂から、さくらを抱えた小狼が転がり出てきた。

「小狼! さくらちゃん!」

 芙蓉の叫び声に、皆が集まった。

「あ、姉上。さくらをお願いします」

 シーツに包まったさくら。
 足には垂れた血が固まっていたのを見た芙蓉は、さくらの身に何が起きたのか理解した。

「ええ、わかったわ。全て任せてちょうだい」

 芙蓉はさくらを受け取って、部屋を出て行った。

 命からがら逃げてきた小狼は、その場にへたり込んだ。
 が、それだけでは済まなかった。

「おい。なぜさくらを護れなかった!」

 桃矢が小狼を問い詰める。

「なぜ、なぜ・・・」

 ベキ!!
 呻くように声を発したと思ったら、桃矢は小狼を殴っていた。
 殴られた小狼は壁まで吹っ飛んだ。

「なんとか云ってみろ!」

 しかし、小狼は黙って頭を下げただけだった。

「桃矢、やめなよ」

 雪兎にたしなめられたとはいえ、さくらの身の上に起きた不幸を思うと、桃矢は冷静ではいられなかった。

「彼を責めるなら、僕たちも同罪だよ」

 ユエの仮の姿である雪兎も、ケルベロスから話を聞いていた。
 本来の自分がさくらを護れなかったということを。

「彼は苦しんでいるよ。でも、物をいえば言い訳になる。ならば、黙っているしかないじゃない」

 桃矢は未だに頭を下げている小狼に近づいて云った。

「すまなかったな」

 桃矢は小狼の肩に手をやった。





 芙蓉は、鏡の前に座っているさくらの髪をブラシで梳いていた。
 今は風呂にも入って、小ざっぱりとした服に着替えている。
 芙蓉は、さくらに聞こえないようにため息をつく。
 鏡の中のさくらは、さっきから身をぎゅっと固くして目を瞑っていた。
 目から泪が溢れていた。

<さて、何をどういったものかしら・・・>

 さくらの身に何が起きたのか、同性として充分すぎるほどわかった。
 そしてそれがどれほど不幸なことなのかも。
 同じ目に合っていない自分には、さくらに何を云ってもダメだろう。

<小龍の時と、逆になったわ>

 芙蓉は、またひとつため息をついた。

「わたし、わたし、汚れちゃいました。穢されちゃいました。ううっ・・・」

 さくらの身は、いっそうぎゅっと固くなった。

<この子は、こんなにもか弱かったんだ・・・>

 クロウ・リードの後継者にして、彼を上回る魔法使い。
 そのさくらが身を震わせて泣いていた。
 が、振り返ってみれば、さくらはまだ思春期の女の子だった。
 弱くて当然なのだ。

「さくらちゃん、そんなふうに考えてはだめよ」

 芙蓉はさくらを後から包むように抱いた。

「でも、でも。小狼君に悪くって・・・」

「どうであれ、リチャード・王を我が身に受け入れたことを云っているの?」

 リチャード・王の名前を聞いて、さくらがビクンと震えた。

「わたしでも拒めなかったでしょうね。でもね、さくらちゃん・・・」

 果たしてさくらは、これから自分が云う事をわかってくれるだろうか。
 取りようにとっては、きつい言葉なのだ。

「海にいた生き物が陸に上がって以来、子孫を残すために女は男を我が身に受け入れる。
 進化の過程で、そうなったのよ。さくらちゃんも人間である以上、この事からは逃れられないわ」

 陸から海に戻ったイルカなどの哺乳類は別として、海の生き物はまずもって体外受精である。
 当たり前ではあるが、陸は海より乾燥している。
 ゆえに陸の生き物は体内受精で子孫を残す。

「でも、でも・・・」

「そう。だからこそ、好きな男の人に捧げたいと思うのは当然よね。だけど、さくらちゃんもこの事からは逃れられない」

 芙蓉は2度繰り返して云った。云
 いたい事がさくらの中に染み込む様に。
 ようするに、仕方のなかった事だと芙蓉は云いたかった。
 好きな男に捧げたいと考える事は理である。
 人が社会というものを作って生きていくための理である
 対して、性は種を保存するための本能であって、本能を刺激されては抗うこともできまい。
 もちろん、それ以前に避けることはできたかもしれない。
 しかし、リチャード・王の狙いがさくらにあった事をわかるのが遅かった。
 敵は用意周到だった。

「さくらちゃんが小狼の前から消えるつもりなら、やめてほしいんだけど」

 はっとした顔でさくらは芙蓉に顔を向けた。

「やっぱり、そうだったんだ」

 さくらは唇を噛み締めた。

「実を云うとね、小狼は本当の弟じゃないの」

「ええ?」

 芙蓉は辛そうな顔になった。

「クロウ・リードの血筋に当たる人に李瞬海という大叔父がいたの。この大叔父が老いらくの恋をしてね。
 あっ、もちろんその時には奥さんは亡くなっていて、ずっと一人身だったの」

「その時、生まれたのが?」

「そう、小狼なの。でも、幸せは続かなかった」

「どうしてですか」

「当時の当主であったお祖父様が本家に養子として入れたの。それも卜占の結果に従って、半ば取り上げる様にしてね」

 さくらの顔が強張った。

「ふっ。ひどい話でしょ。道士の家ともなると、つまらぬしきたりとか、色々あってね・・・」

「それで、小狼君の本当のご両親は、どうなったんですか」

「悲嘆にくれて、ふたりとも亡くなってしまった」

「本当にひどい話ですね」

「ええ、そうね」

 ふたりの間に沈黙が流れた。
「小狼君は、そのことを知っているんですか」

 芙蓉は頷いた。

「わたしを実の姉のように、ううん、わたしたちを実の姉として慕ってくれるけど、血の濃さの違いを感じてしまうのか、
 どこか引いている気がする」

「引け目を感じているんですか?」

 芙蓉が上目遣いで考えている。

「遠慮・・・なのかしら。わからないわ」

 それは言葉にはできない微妙なものなのだろう。

「それに今回のことで、小狼は魔力を小龍に譲ってしまった。言葉は悪いけど、本家にとって小狼は用済みになったわ。
 ひょっとすると、今回のことも卜占に出ていたのかもしれないわね」

「それって本当にひどい!!」

「だからよ、さくらちゃん!!」

 本気で腹を立てたさくらに、芙蓉は凛とした声で云った。

「だから、小狼は何ものにも侵されない自分の砦というものを持ちたいと思っているの」

「砦?」

「自分がいるべき位置(ポジション)というのが正しいかな。何ものにも侵されない確固たる自分というものを」

 さくらは芙蓉を、まじまじと見た。
 この人は、小狼のことをここまで見ていたのかと思った。

「昔、小狼が『クロウ・リードになりたい』って云ったことがあった。クロウは李家の一族だったけど、変わり者でね、
 ある日、ぷいっといなくなったのよ。李一族でありながら自由気ままに生きた、それがクロウ・リード」

「クロウ・リードになりたい・・・」

 さくらには小狼の気持ちがわかる気がした。
 魔法使いとしてだけではなく、何ものにも縛られない自由人としての生き方に憧れたのだろう。

「でもね、小狼はクロウほど変わり者じゃないわ。比べると小狼は、あまりにも普通人。
 その意味で、小狼はクロウにはなれないのよ」

 芙蓉は、ふっと微笑んだ。
 芙蓉の微笑みに、さくらも微笑んだ。
 小狼はいつもさくらを見守っていた。
 いつもさくらの事を思っていた。
 その小狼が自由気ままになるには、もっともっと身勝手に、もっともっと我侭にならないと無理な気がした。
 だがそれでは・・・。

「そう。それでは小狼ではなくなってしまう」

 さくらは、ぷっと吹き出した。
 芙蓉の言葉が、さくらが云おうとした言葉と一字一句同じだったから。

「さっき云った『砦』という意味だけど、小狼が大きくなるうちに変わったと思うの。今は、自分が守るべきもの。
 当然その中には、さくらちゃんがいる」

「わたしが?」

「だから、さくらちゃん。小狼のためにも、いなくなるなんてしないでほしいの。お願いします」

 芙蓉はさくらに頭を下げた。
 身勝手といえば、これほど身勝手な話はないだろう。
 芙蓉は、小狼のために、と云っているのだから。
 しかしさくらは、芙蓉がそんな小さな器量の持ち主ではないことを知っている。
 さくらたち、女の子たちが小龍を抱きながら夢見がちに話をしたとき、ぴしっとたしなめた。
 後で知世が云ったものだ。

<芙蓉さんって、優しさの中に厳しさがありますね>

 優しいだけの女性ではなかった。
 そのことは、さくらも、いや、女の子全員も感じた。
 その芙蓉が『小狼のため』と云ったのは、さくらの心の傷を思いやったからだろう。
 少しでも、さくらが負担に感じないようにと。
 さくらだって、できるなら小狼と別れるようなことはしたくなかった。

「でも、わたしみたいな瑕物といれば、小狼君は李家から絶縁されちゃうのでは?」

 さくらは、父が撫子の実家から縁切り状態だったことを知っている。
 さくらはさくらで、祖父母がいなかったのを寂しく思ったこともあった。
 小狼も、父の藤隆のようにひとりぼっちになるのだろうか。
 それだけは絶対にだめ、と思った。

「逆よ、逆、さくらちゃん。現当主である母上に相談なく、勝手に魔法を譲った小狼ですもの、追放は免れないわ」

「それじゃあ、お父さんと同じだ・・・」

 さくらの顔が青くなる。

「その意味でも、小狼の傍らにいてほしいの」

「わたしのせいだ! わたしの!」

 取り乱すさくらに芙蓉はさくらの肩に手をやった。

「いいえ、わたしのせいよ。わたしが小龍を助けてって云わなければ、こんなことにはならなかったわ」

「でも、それは小龍君を助けるために・・・」

「ありがとう・・・」

 芙蓉はさくらに礼を云った。

「さくらちゃんのお母さん、撫子さんはなぜお祖父さんたちの反対を振り切ってまでお父さんの許へ嫁いだのかしら?」

 芙蓉は、さくらの母親の話を聞いていた。

「動物だって巣立ちをするわ。いいえ、中には親が子供に噛み付いて追い払うものまでいる。
 撫子さんは、大好きなお父さんの許へ巣立ったのよ。
 小狼も同じ。小狼は、何ものにも侵されない位置を得るために李家から巣立つ必要があるの。
 人間だけかもしれないわね、いつまでも子供を手元に置いておきたいと思うのは・・・」

 暗に、撫子の祖父のことを云っているようだった。

「わたしだって小龍がその時になったら、どうなることやら。うふふ、えらそうな事は云えないわ」

 その時を思って苦笑する芙蓉。

「お父さんの事があったので、さくらちゃんは小狼と李家の事を考えてくれているのね。
 でも、やはり人間は他の動物と違うの」

「違う?」

「巣立ちは永遠のお別れじゃないのよ。人間は家庭同士の結びつきというものがあるわ」

 それが一族というもので、小狼はその一族から追い出されようとしているのだが。

「確かに李一族から縁切りになる。でも、わたしと小龍は、さくらちゃんたちを命の恩人として繋がりを持つわ。
 この事は誓って約束します」

 李家の関わり合いとは別なところで、さくらたちと交流するということなのだろう。

「実を云うとね、この事は母上の同意を得ているの」

「本当ですか」
「ええ。母上も、それはあなたたち個人の事だから黙認する、ってね」

 小龍が助かった後、芙蓉は本家に連絡を入れていた。
 周家は李一族の一員とはいえ、一旦は周家に嫁いだ身。
 芙蓉に李家のしきたりをひっくり返す力はなかった。

「ごめんなさい。わたしにもっと力があればよかったのだけれど・・・」

 小龍の命を助けてもらった恩に報いるには小さすぎると、芙蓉は恥じていた。
 ましてや、そのためにさくらが負った身の上を思うと、尚更だった。

「わたし、小狼君が好きです。だから、好きということの上に立って、真剣に考えてみます」

「さくらちゃん・・・」

 今までは『好き』というだけだった。
 それ以上のことを考えるのは、まだ先のことだと思っていた。
 だが、思ったより早く考えなくてはならない時が来てしまったのかもしれない。

「どうなるかわかりませんが、もし芙蓉さんが考えているようなことになったら、その時は・・・」

 さくらの顔が赤く染まった。

「お義姉さんと呼んでいいですか?」

「ええ、ええ。本当にそうなることを願っているわ」

 芙蓉は、本当にさくらにそう呼ばれたいと思った。
 その時、小狼の大声が聞こえてきた。

「さくらぁぁぁ、大好きだぁぁぁぁぁ!!!」

 さくらはいっそう赤くなった。
 そのさくらを芙蓉は微笑んで見ていた。




 満月が中天より西に傾いていた。
 月食もすでに終わり、見事な満月だった。
 その満月を小狼は庭先で見つめていた。

「小僧、ホンマよう帰ってこれたなぁ・・・」

「ケルベロスか」

 いつの間にか、小狼の横にケルベロスが浮かんでいた。

「お互い、ボロボロにやられたさかいなぁ」

「さくらが、おれの命乞いをしてくれたから助かった」

「そうやったんか」

「それと、クロウカードのおかげだ」

 本当に、エリオルからもらった鍵とカードがなければどうなっていたことか。
 いや、全てリチャード・王の思惑通りに終わっていただろう。

「クロウも、ホンマ根性曲がっとるわ。最初から教えてくれたらええものを・・・」

 この場合のクロウとは、クロウの生まれ変わりであるエリオルのことだったが。

「何がどうなるのかは、詳しくはわからなかったんだろう。ただ、さくらの未来に暗いものを感じたんじゃないかな」

「それやったら、さくらにカードを渡せばええのにな。小僧に渡すとは、やっぱあいつはクロウや」

 さくらに渡さず、小狼に渡したからこそ敵の意表を突けた。
 もちろんケルベロスもわかっていた。
 ケルベロスは空[スペイシー]のカードを見ていた。

「こんなカード、あったんやな」

「ケルベロスは知らなかったのか」

 ケルベロスが頷いた。

「クロウが世界各地の魔法を研究していたのは、知っとったけど」

 会話がここで途切れてしまった。
 ケルベロスが聞きたかったのは、カードのことではなかった。

「リチャード・王って云っとったな。さくらを、どないするつもりやったんや?」

 小狼の顔が苦いものを呑まされたような顔になる。

「あいつは、さくらを使って龍門の秘法を行ったんだ」

「龍門の秘法?」

「我が身に龍の力を受け入れて龍の化身となる。そういう秘法があったのは知っているが、その魔法は今に残っていない」

「なぜや?」

「人間を生贄にする邪悪なやり方だったらしい。それに、今さら人が龍になって何をする?というのが
 先人たちの答えだったとも聞いている」

 それ以上を語らない小狼だったが、ケルベロスにも合点が行った。
 小さく何度も頷いた。

「しかし、わいが聞きたいのは、そんなことやあらへん」

 本題とばかり、ゆっくりと云う。

「さくらのこと好きか?」

「ああ・・・」

「今でも好きか?」

 小狼がケルベロスを睨みつけた。
 リチャード・王の手にかかっても、という意味なのだろう。

「今でも好きだ」

「ホンマやな?」

「くどくどとうるさい!」

 怒鳴り散らした。
 ケルベロスの問いかけは、いやでもさくらを護れなかった己の不甲斐なさをを思い出させる。

「だったら、今ここで、大声で云うてみい。さくらが好きやと」

 息を吸い込む小狼。

「さくらぁ、好きだ!」

「声が小さい!」

「さくらぁ、好きだぁ!!」

「まだまだぁ!」

 目いっぱい息を吸い込む。

「さくらぁぁぁ、大好きだぁぁぁぁぁ!!!」

 月夜に小狼の大声が響いた。

「ほな、さくらの許に行きや」

「え?」

「さくらが待っとるさかい」

 小狼は、云っている意味がわからないという顔をする。

「あのな、あれだけの大きな声やさかい、聞こえてへんわけ、あらへんやろ」

 しっかりせい、という顔のケルベロス。
 云われて初めて気が付いた。
 小狼の顔が真っ赤になった。




 トントントン。
 ノックする音が聞こえる。

「さくら、入っていいか?」

「うん、いいよ」

 小狼が赤い顔で入って来た。
 迎えるさくらの顔も赤い。
 今は部屋にさくらひとりだった。

「・・・・・」

「・・・・・」

 お互い何を話してよいものか。

「小狼君、ずっとそこにいるつもりなの? こっちに来て」

 間がもたなくなったさくらが話しかけた。
 おずおずと小狼がさくらの近くまで来た。
 先ほどの大声がさくらに聞こえたのかと思うと恥ずかしかった。
 さくらも、ああ云ってくれて、うれしいやら恥ずかしいやら。
 やはり顔が赤い。

「座って・・・」

「うん・・・」

 長いすに腰掛けていたさくらの横に、小狼も腰掛けた。

「・・・・・」

「・・・・・」

 気まずい沈黙。
 その気まずさには恥ずかしさの他に、さくらに起きた身の不幸もあった。

「小狼君。小狼君は魔法使いだよね?」

「あ、ああ・・・」

 さくらが意を決して捲くし立てた。

「じゃあ、わたしを清めて! 穢されたわたしの身体を小狼君に清めてほしい!!」

 忌まわしい記憶が蘇る。
 さくらの眼からは涙がぽろぽろと流れていた。
 その涙を見た小狼は、さくらを強く抱きしめた。

「もういい。さくら、もう何も云わないでくれ」

「小狼君?」

「おれ、さくらを護れなかった」

「ううん、悪いのはわたし。小狼君、ひとりで突っ走るなって云ってくれたのに・・・」

 さくらを抱く小狼の腕にぎゅっと力が入る。
 さくらの腕が小狼の背中にまわる。
 ふたりの唇が触れ合った。




 カーテンの隙間から朝の光が差し込む。
 朝日を感じたさくらが眼を覚ました。
 半身を起こす。
 ふっと見ると、横にはまだ眠っている小狼がいる。

<わたしたち、結ばれたのね・・・>

 指を下腹部の向こうにやる。
 そこには、愛しき人が愛してくれた証があった。

「ううん・・・さくら・・・」

 突然名前を呼ばれてドキッとする。
 が、小狼はまだ起きない。
 小狼の寝顔を見ているうちに、昨夜の記憶がだんだんとはっきりとしてきた。

<恥ずかしい・・・>

 かっと耳まで熱くなったのがわかった。
 なのに、小狼はまだ寝ている。
 子供のような寝顔を見ているうちに、さくらはだんだんと腹が立ってきた。 

<もう、わたしはこんなにも恥ずかしいのに!>

 この思いを小狼にも感じてほしいのに、自分ひとりだけが感じている。

「小狼君、朝だよ。起きなさい」

 愛しくて、憎らしい寝顔の小狼の鼻をつまんだ。

「ふが、ふが。あっ、さくら・・・おはよう」

 鼻をつままれたにもかかわらず、今も夢の中みたいな顔で小狼が起きた。

「さくら、なんで裸なんだ?」

「ほえ?」

 見る見るうちに、ふたりの顔が赤くなる。
 裸のふたりは素早く背中合わせになった。


  オールド・ハワイコナさんのSS  『CCさくら〜黒衣の花嫁〜』第8話の掲載ですぅぅぅ。
  
  はわわ、さくらちゃんの純血がぁぁぁ。 ガ━━(= ̄□ ̄=)━━ン!!
  でも、そのおかけで小狼と本当に結ばれたし。
  良かったのかな?ヽ(´▽`)/へへっ
  

  次回は決戦? (どうなの?はわいこなさん?)   (((o(^。^")o)))ワクワク 

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