「はじまりのさよなら そして…」

俺は大学の講義の帰り道、夕暮れの町並みを一人歩いている。
季節は移り変わり、そろそろ秋の匂いが漂ってくる頃。
青々としていた木々の葉には、うっすらと赤みが差してきて、風にも若干の
涼しさが感じられる。

「ただいまー」
家のドアを開けて、玄関に入る。
いつもと変わらない同じ風景、変わらない色彩、変わらない空気。
そしてこれだけは新しく加わった幸せな声。
パタパタと響くスリッパの足音と一緒に聞こえてくる、希望に満ちた声。

「おかえりなさい、お兄ちゃん!」

この明るい声をどれだけ待ち望んだことだったろうか。

・・・・・・

加奈の手術が成功してから、すでに数ヶ月の月日が流れていた。
加奈の身体の中には、俺の身体の一部が、力強くその生命を根付かせている。

ミスマッチゼロ。

腎移植において、肉親ではない、他人同士の間では何万分の1しかない成功率が
俺達を救ってくれた。
「奇跡」と人は呼ぶ。
でも、俺はそんな陳腐な言葉で片づけたくはない。
血の繋がりなどなくても、兄妹を超えた二人の絆は起こるべくない未来を
生み出してくれたのだ。

「お帰り、加奈」

俺は手術後の加奈が目を覚ましたとき、万感の思いを込めてそう告げた。


「よかったわね、隆道君!」
加奈の容態は日に日に回復していき、今日はICUから普通病棟へと移る事となり
両親と俺は加奈の見舞いに来ていた。
そして、病室の引っ越しも程なく終わり、その帰り道、ナースセンターの前で
美樹さんに捕まったのだった。
「じきに加奈ちゃんも退院ね。 とっても嬉しいことなんだけど、ちょっぴり
寂しい気もするわね…」
長年加奈と共に過ごしてきた美樹さんの感傷的な言葉は、俺に改めて加奈が元気に
なっている事を認識させてくれた。
「おっと、そんなこと言っちゃバチが当たるわね。 みんなが待ち望んでいたん
だもの。 …これからも、ずっと加奈ちゃんを守ってあげてね、隆道君?」
美樹さんが真剣な眼差しで俺に語りかける。
俺は強く頷くと同時に「ありがとう… 美樹さん」と堪えきれず涙声で応えた。
すると美樹さんはその真剣な顔を綻ばせ、いつもの人をからかうような笑顔に戻り
「んもう! だめよお! そんな顔しちゃ。 これからはずっと笑っていられるん
だからね。 ずっと一緒に、笑顔だけが二人の顔。 涙なんて流しちゃダメよぉ!
そんな顔してるお兄ちゃんには、ちょっぷちょっぷ!!」
そういって、俺の頭を小突いたのだった。

・・・・・・

加奈が戻ってきたその日、俺達はついに身も心も一つに結ばれた。
禁忌とか、倫理とか、そんなものはどうでもよかった。
俺達は確かに愛し合い、そしてお互いを自分の分身として認めあっている。
兄妹ではなく、一つの男女として。

「ダメ! その先は言っちゃダメなの!」

加奈は俺の言葉を遮ろうとする。
しかし、もう迷わない。
たとえ、それによって地獄へ堕ちようとも。
俺はとうとう今まで言えなかった言葉を口にしたのだった。

「愛している」

その時加奈の身体は大きく震え、力無く崩れ落ちようとする。
俺は優しく包み込むように抱きしめ、そっと唇を重ねた。

決して祝福されることのない、禁断の恋。
しかし、二人の心は誰一人分かつことは不可能であった。


ある日の夢。

加奈と二人で歩く大学のキャンパス。
俺の隣で、幸せそうに腕を組みながら笑っている加奈。
照れ隠しに不機嫌そうな顔で歩く俺を覗き込み、無邪気に微笑む。
つられて吹き出す俺。
明るい日差しの中、元気に歩く二人。

朝、目覚めたとき、それは現実に起こる未来なんだとそう信じていた。

・・・・・・

そして、旅立ちの日がやって来る。

両親の再三の説得にも関わらず、加奈の決意は固かった。
住み込みで働く、古本屋の仕事。
老夫婦二人で経営しているその職場には何も心配はなかったが、それは同時に
二人の別れを意味していた。

「お兄ちゃんのそばにいると… わたし、たぶん強くなれない…
ずっと依存して、甘えて、前に進めなくなる。
だから寂しいけど… 今は甘やかさないで。
せっかく普通に生きられるようになったんだもん」

加奈の言葉が何度も頭の中で繰り返される。
加奈は選んだのだ。二人で寄り添って祝福されない関係を続けるより、
たとえそれが厳しい選択であっても、認めてもらえる関係を築こうと。

精神も肉体も一つに溶け合った甘い蜜月。
その終わりが来ることなど、予想だにしていなかったが、加奈のために、
いや、二人のためにそうすべきなのだ。

笑って加奈を送り出してやろう。
そして、新しい未来を見つけよう。
それが、俺の出来る全てなんだ。

「何時だって俺は加奈のことを感じている。 俺達は一心同体なんだ」
「一心同体…」
「そう、離れていても、俺達二人はいつも一緒なんだぞ」

俺の言葉を胸に、加奈は満面の笑みを浮かべて旅立っていった。

そう、百点満点の笑みを。

・・・・・・

そして、数年の月日が流れた。

俺は大学を卒業し、すでに社会人としての日々を過ごしている。
加奈とは手紙のやりとりをするくらいで、時々家に帰って来たとき以外は
殆ど顔を合わせていなかった。
しかし、俺達の心は相変わらず一つであり、あの誓いの時と何一つ変わった
ところはない。 むしろお互いに距離を置き、自分を見つめ直すことで、
その気持ちは頑ななまでに強くなっていった。


「隆道」

ある日、突然俺の部屋のドアが開き、そこには真剣な眼差しで俺の顔を見つめる
父親の姿があった。

その父親の眼差しには何度か見覚えがある。
最初は、小学生の時。
ハイキングの道すがら、加奈をいじめる俺を叱り、「強い男になれ」
と言ったとき。
2度目はやはり小学生の時。
授業参観を妨害した俺の頭を撫でながら「加奈を守ってくれ」
と話したとき。
最後は、加奈の臓器移植に反対し、俺に加奈との本当の関係を告げたとき。

久しぶりに見る、父親の本気の眼差しだった。


父親は俺の前にゆっくりと腰を下ろすと、そのまま黙っていた。
ひどく思い詰めた、とても言い出しにくいことを切り出さねばいけないような
そんな苦渋に満ちた表情。

「…どうしたんだよ、改まって?」
俺は沈黙に耐えられなくなり、口を開く。
すると父親は俺の目を真っ直ぐに見つめ、強烈な一言を発した。

「隆道、加奈のことをどう思っているんだ?」

その単刀直入な物言いに、俺は咄嗟に言葉が出ず無言で見つめ返した。
「お前達は、たとえ血が繋がってないとはいえ、兄妹なんだぞ。
どんなに愛し合ったとしても、それは決して認められない関係なんだ。
それがわかっているのか?」
「……」
「……」
「……」
「……」

時が止まった。
いや、正確には時を刻む秒針の音が鋭いくらいに聞こえる程の静寂。
空気が凝固し、息が出来ない。
だが、不思議と苦しさは感じられなかった。

長い沈黙のあと、俺は凍り付いた唇を引き剥がすようにしながら呟いた。
「…そんな事」
「……」
「そんな事、とっくにわかっているさ。 でも、ダメなんだ。 俺は加奈じゃ
ないとダメなんだ!!」
「お前…」
「加奈だって、俺のことを愛してくれている。 兄貴としてじゃない。
俺も、妹としてじゃない、加奈を愛しているんだ!!!」
最後は絶叫に近かった。
今まで抑えていたものが爆発したかのような、血を吐くような叫び。
二人だけの秘密を他人に白状してしまった、辛い、痛みを伴う叫び。
しかし、堰を切った想いは止まらなかった。
「親父やおふくろが何て言おうと、俺は加奈を愛している!
俺達はいつも一緒だった。 そして、これからもずっと!」
「……」
父親は黙っていた。
何事かと顔を青ざめながらやって来る母を無言で制し、俺のことを静かに
見つめていた。

再び、数刻の沈黙。

そしてゆっくり溜息と共に言葉を吐く。
「…わかった。 明日、加奈が帰ってくる。 その時に皆でもう一度話をしよう」
そう言って、俺を一人部屋に残し、母の肩をかばうように黙って立ち去っていった。

俺はその後ろ姿を黙って見つめるしか出来なかった。
頭の中が混乱し、正常な判断が出来なくなっている。

(ついに来るべき時が…)
(でも、俺は加奈を愛している!)
(誰がなんと言おうと、俺達は二人一緒なんだ!)
(加奈を愛している)
(加奈を)
(加奈…)

加奈の笑顔が目に浮かんでは消え、頭の中で火花が散っているように痛む。

そして、その後のことは何も覚えていない。

翌日になって、ただ一つ覚えていたこと。
父親の背中が、なんだかとても寂しそうに見えたことだった。

・・・・・・・

「二人ともそこに座りなさい」
居間のソファーに、両親が並んで座っていた。
その向かい側に、俺と加奈は同時にゆっくりと腰掛ける。
ほんの数年前、俺達二人が仲睦まじく過ごしていたソファー。
二人並んでテレビを見ながら過ごした暖かい場所。
それが今は死刑台の上のように冷え切った場所に感じられた。
俺は口を真一文字にひき結び、何があっても加奈を守る決意を瞳に宿し、
両親の顔を射抜くように見つめた。

当の加奈はというと、てっきり怯えているのかと思ったが、俺同様、強張った
表情の裏に強い意志が感じられる、神々しいまでに美しい顔をしていた。

「加奈」

最初に口を開いたのは父親だった。

「…お前、強くなったな。 家にいた頃とは別人のようだ」
愛情に満ちた、とても優しい声色だった。
「お父さん…」
「お前が私たちの本当の娘ではないことは、前にも伝えたな。
そして、私たちはあの臓器移植の瞬間まで、お前のことを本当の娘だと思って
接してきた。 しかし、最後の最後で、お前を裏切ってしまった。
実の息子の身体が傷つくことに耐えられず、お前に臓器移植をする事に反対した。
そのことを、今でも悔やんでいる。 本当にすまなかった…」
以前、加奈が退院して間もない頃の告白を、父親は再び繰り返した。
「お父さん、そのことはもう終わったはずよ。 わたしはお父さんもお母さんも
何時だって大好きなんだから。 本当の親だって思っている」
加奈は父親の言葉を否定するように強く応えた。
しかし父親は頭を振り、言葉を続ける。
「私も母さんも、あれ以来更にお前のことを本当の娘だと思って接してきた。
今まで以上にお前に目をかけてきた。
そして… 気付いてしまったんだ。 お前達の関係を」

「……」
「……」

覚悟していたとはいえ、やはり直接両親の口から聞かされると、衝撃的な
言葉だった。
俺は拳を強く握りしめ、歯を食いしばるように黙っていた。
加奈の目から、ひとしずくの涙がこぼれる。

「お前達二人の気持ちはわからないでもない。 小さい頃から、ずっと二人で手を
取り合って生きてきたのだからな。 実の兄妹以上に、お前達二人の絆は固く
結ばれているのだから。
しかし、お前達はあくまで兄妹だ。 その関係は絶対に許されるものではない。
人道的にも、倫理的にも、そして、両親である我々にとっても」
「……」
「……」
父親は言葉を続けた。
「…そこで、加奈、お前を養女から外そうと思う」
「なんだって!!?」
俺は立ち上がって叫んだ。
「何を馬鹿なこと言ってるんだよ! たった今自分の娘だと思っているって
言ったじゃないか! それを、そんなに簡単に、拾ってきた猫を捨てるような
真似するってのかよ? ふざけるな!!」
俺は父親に今にも掴みかかる勢いで捲し立てた。
「あなた! 何て事言うの!? 加奈は私たちの娘なのよ!?」
母親も驚きを通り越した怒りをぶつける。
しかし加奈だけは、黙って父親の言葉を聞いていた。
涙を拭おうともせず、瞳を大きく見開いて、じっと父親の顔を見つめていた。

「加奈、お前の本当の父親は、私の古い友人だ。だから、お前には藤堂の籍を
離れて、本当の父親の籍に戻ってもらう」
「言うな!!」
俺は父親に飛びかかろうとした。 慌てて止めに入る母親。
「…そして、改めてお前を娘として迎えようと思う」

「……え?」
「…何?」
「あなた?」

加奈と俺と母親の三人は、その意外な言葉に戸惑い、思わず聞き返した。

父親はにっこりと微笑むと、ゆっくり立ち上がり加奈の前に歩み寄る。
そして、その両頬を包み込むように手を添え、一言一言区切るように
こう告げた。

「改めて、新しい娘として、大事な息子の嫁として迎えようと思うのだが」

「あ… ああ…」
加奈はわなわなと身体を震わせていた。
想いを言葉に出来ず、ただわなないていた。
勿論俺も、あまりのことに声が出ない。
「私は、お前を藤堂家の嫁として、喜んで迎えるつもりだよ」
父親が娘に、最高の愛情のこもった言葉を投げかけた。

「お父さん!」

その言葉を聞き、加奈は更に大粒の涙を流しながら父親に飛びつく。
「大きくなったな、加奈。 私は、娘を嫁に出す父親と嫁を迎える父親の
二人の気持ちを同時に味わうことになるよ」
そう言って、泣きじゃくる娘の頭を優しく撫でていた。

加奈の嗚咽する声がリビングに響く。
そして、いつの間にか俺の瞳からも、父親も、母親も、涙を流していた。
暖かい涙を。

・・・・・・

そして更に月日は流れ…

清らかな教会の鐘が辺りに鳴り響く。
今日、俺達は皆の祝福の元、結婚式を迎えるのだった。

参列者には見知った顔ばかり。
嬉しそうに微笑む美樹さん。
寂しそうな、それでも精一杯の祝福の笑顔を向ける夕美。
高校生になった香奈は、俺に向かって思いっきり手を振っている。
勇太の顔も見えた。
皆、俺達を心から祝福してくれている。

こんな日が来ることは予想してなかった。
そう、加奈はこの日を探し求めるため、あのとき俺の前から旅立っていったのだ。
こんな風に、笑顔で皆に迎え入れられるため。
祝福された、最高の日を迎えるために。

そして、教会の扉が開く。
まぶしい光の中に、一人立つ影。
真っ白なベールに包まれた加奈は、日の光を浴びた雪の精のように輝いている。

誇らしげな父親と、嬉し泣きの母親。
その両親の前で、俺は最愛の女性を伴侶に迎える。

小さかった加奈。
弱かった加奈。
寂しがり屋だった加奈。
臆病だった加奈。
かけがえのない加奈。

でも今は、とても強くなった一人の女性。
昨日まで妹だった娘は、長い道のりを経て、俺の隣にいる。

今日からは妻として。
俺が愛した、たった一人の女性として。
これからの生涯をずっと共にする、最大のパートナーとして。

加奈は、最高の笑顔に包まれながら、俺の元へと歩み寄る。
そう、あの時に見せた、100点満点の笑顔で。


「隆道くん! 加奈ちゃん! お幸せに!」
「とーどーくん! 加奈ちゃんを泣かせたら、私が許さないからね!」
「お兄ちゃん、お姉ちゃん! 最高だよ!」
「先輩! 藤堂を絶対幸せにしてくれよな!」


皆の祝福の声の中、俺達は、バージンロードを一歩々々歩き出した。


これから二人の新しい物語を紡ぎ出すために。

終わり  「・・・・お兄ちゃん・・・大好き・・」

あとがき

如何でしたでしょうか?
ネタバレ色が強く、長い間公開出来ずにいたのですが、この度管理人の
なりぽしさんと、以前私が書いた別の加奈作品のために作曲して下さった
そこつやさんのご厚意により、拙作を公開させていただく事になりました。

この作品は、加奈の第1エンド「はじまりのさよなら」の補完的意味合いです。
作品中では、隆道と加奈のその後が語られてないんですよね。
で「何としても幸せにしてやろう!」との一念で書いてみました。
さて、その思いが読んで下さった皆さんにお伝えできれば良いのですが…


BGM by そこつやさん  
 「いもうと」
       今回のガンさんSSの公開に際してご自身の作曲されたMIDIを
       気持ちよく提供してくださった、そこつやさんに感謝いたします。     
                                           なりぽし